先ず持って、能登半島地震で亡くなられた方、被災された皆さま方に心よりお悔やみとお見舞いを申し上げますと共に、一刻も早い復旧・復興を願う次第です。
さて、100年を超える輝かしい伝統と活発な活動で全国に知れ渡っている『東京富山県人会連合会』の12代会長という大役を務めることになりました。
コロナ禍での難しい期間を含め、14年間の長きにわたり、強力なリーダーシップを持って連合会を牽引された桑山会長の足元にも及びませんが、引き続き、皆様方のご協力、ご支援により、何とか次世代へと襷をしっかりと繋げるようにしたいと思います。
私は日本有数の急流河川・黒部川沿いの山村、宇奈月町で生を受けました。
宇奈月は100年ほど前から黒部川の水力発電開発の拠点となった所で、最上流部に黒部川第四発電所(1963年完成/通称:クロヨン/殉職者数171名)があります。“クロヨン”が完成した時は小学5年生、小学校にあった村唯一のテレビで、クロヨン完成の様子をみんなで観ましたが、この工事で同級生の父親が命を落としたことを知りました。
当時、作文に「大きくなったら安全にダムをつくる土木技術者になりたい」と綴り、そして、1968年に公開され、観客動員733万人の空前の大ヒットとなった映画『黒部の太陽』(主演:石原裕次郎、三船敏郎)を観て感動、土木を立志、裕次郎が演じた建設会社に入りました。土木であれば“裏日本”“山村”の出身者でも都会人には負けないだろうとの思いからです。
入社後は、ブレーキもバックギアも持たない“暴走族”(当時は企業戦士ともいった)と化しました。富山弁で云うと“ダラ”のように働き続け、この40年間、故郷を振り返ることは一切ありませんでしたが、退社後は東京と宇奈月を行ったり来たりの生活をしています。“田舎を捨てた”不届きものであるにも関わらず、何事も無かったかのように集落民は私を温かく迎え入れてくれました。
宇奈月では、家の周りの草を刈ったり、倒木を片付けたり、山道を整備するなどの日々ですが、小さい頃のことがつい最近の事のように蘇ってきます。
特に祖母に、庭になっていた最後の柿の実三つをねだったことを思い出します。祖母はこう云いました。「一つは食べて良い。一つは鳥に食べさせる。そして最後の一つは土に返す」と。小学校での教育が受けられず読み書きが出来なかった祖母でしたが人の生き方の原理原則、共生(ともいき)を一体誰から教わったのだろうか?この言葉は歳を重ねるに連れて脳裏で増幅する一方です。
60年前に“過疎”、40年前には“中山間地”、そして20年前には“限界集落”と云う警鐘語が生まれました。高度経済成長の副作用として東京などへの一極集中が過度に進行し、この数年、地方創生が叫ばれていますが、一筋縄では行かないようです。
今こそ、これまで先人たちが力を合わせて築き上げてきた智慧から学ぶことの大切さを思い起こしつつ、共生(ともいき)の約束事(利他心/道義心)を土台とし、その上で個々人の価値観を際立たせることができる社会を目指すべきではないだろうかと思います。
県人会のありよう、期待も時代と共に変貌しつつあります。富山という共通の話題で集う人々が、お互いの多様な価値観を尊重し、豊かさの質を転換する、まさに“共生(ともいき)” 回復の架け橋となるよう願っております。
令和6年4月1日
東京富山県人会連合会
会長 大田 弘
1952年 富山県黒部市宇奈月町生まれ
1971年 富山県立魚津高等学校卒
1975年 北海道大学土木工学科卒/株式会社熊谷組に入社
2005年 代表取締役社長
2013年 代表取締役会長
2015年 相談役
(一社)日本土木工業協会 副会長/(一社)日本建設機械施工協会 副会長/(一社)日本建設業連合会 土木運営会議議長などを歴任
(現任)
熊谷組 社友/富山県立魚津高校同窓会長/富山県ひとづくり財団とやまファン倶楽部代表世話人