NHK大河ドラマの2022年は「鎌倉殿の13人」が放送されていることは皆さんご存知でありましょう。
ドラマ前半における源頼朝が鎌倉入りしてから鎌倉幕府成立までのストーリーでは、富山県内に関わっている人物と出来事(物語?)として、木曾義仲の砺波山(倶利伽羅峠)の戦いと、源義経が京都から奥州へ逃れる際に雨宿りをした伝説の残る雨晴岩が挙げられると思う。
このうち、砺波山の戦いはそれなりにシーンあったが、重要キャストの巴御前は木曾義仲が討たれた粟津の戦いのその後についてが何かウヤムヤになってしまった。
まぁコレはTVドラマの宿命で限られた話数なので跳ばされても仕方ない展開なのかも知れないが、何となく釈然としないので、ココで高岡市の雨晴海岸にある「雨晴岩」と、南砺市の福光駅前に立つ「巴御前終焉の地」の碑に寄せてコラムをさせていただく。
源義経が雨宿りをした「雨晴岩」
雨晴海岸の象徴ともいえる岩としては、氷見線の下り列車に乗ると越中国分駅を出発して300m程先のトンネルを抜けた後に車窓右手に富山湾が広がるが、そこに浮かぶ「男岩」と、続いて見えてくる「女岩」が有名だろう。だが「雨晴海岸」の名の由来になった岩は岸に寄り添うように立つ「雨晴岩」になる。
雨晴岩は別名「義経雨はらし岩」と言い、1187年(文治3年)に源義経が京都から奥州の藤原秀衡の元へ赴く際に、ここを通りかかった折りに にわか雨にあい、この岩の下に家来ともども雨宿りをして、雨が晴れるのを待ったという伝説から、この岩に「雨晴岩」の名が付いたと言われている。 では、1187年以前にはこの海岸は何と呼ばれていたのか? 歴史や短歌が好きな方なら、奈良時代の貴族で歌人の大伴家持が、伏木の地にある国府に国守として746年(天平18年)から5年の間赴任してきており、その間にはこのあたりの風景を多くの歌に詠んでいることを解っているだろうから、雨晴海岸以前の地名があって然りとの疑問が出てくるのではなかろうか。 ということで、そんな歴史を鑑み上写真の説明板の大伴家持の歌を読むと、奈良時代には雨晴海岸は「渋溪(しぶたに)」と呼ばれていたと導きだすことができよう。また、雨晴海岸とすでに呼ばれていたはずの江戸時代に、俳人の松尾芭蕉が1689年(元禄2年)による紀行文おくのほそ道の越中 那古の浦で詠んだ句には「有磯海(ありそうみ)」の言葉が入っている。これはどこのことなのか、これまたややこしくなってしまう。
有磯海とは、実は場所の名ではなく、海面上に突き出した岩礁のことで、まさに女岩を指している。言葉の出所を簡潔に纏めると、万葉集巻十七にある、大伴家持が越中で詠んだ歌の中の「海の荒磯」からであり、その後の歌人に詠まれていくうちに、平安時代には平仮名の「ありそうみ」に変型し、室町時代には「有磯海」の漢字があてられたと言われており、越中の代表的歌枕になっている。
福光駅前に建立されている「巴御前終焉の地」の碑
「鎌倉殿の13人」のストーリー中では、巴御前は木曾義仲の側近として共に戦ってきたが、義仲が粟津の戦いで討たれた以後の生涯は詳述されていない。
「源平盛衰記」によると、巴御前は「和田合戦の後に、越中国礪波郡福光の石黒氏の元に身を寄せ、出家して主・親・子の菩提を弔う日々を送り、91歳で生涯を終えた。」という後日談が語られている。
ドラマの進行状況的にはアップ日時点では現状生存しているので、いずれ何かの機会に登場してくれることを願いたい。
富山県内には巴御前の墓所とされる地として、小矢部市の倶利伽羅県定公園と南砺市の巴塚公園の2箇所があげられる。このうち巴塚公園については、場所がJR城端線福光駅から近いためかその最寄の福光駅前広場に「巴御前終焉の地」の碑が建立されている。
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